第2回「防衛大学校の名物教授」

今年1月17日、阪神淡路大震災から28年が経ちました。当時、陸・海・空の自衛隊を現場において総指揮したのが陸上自衛隊 中部方面総監 松島悠佐(まつしま ゆうすけ)陸将でした。
防衛大学校を卒業後、各地の部隊勤務、司令部勤務を務め指揮官として、また幕僚として見識を積み重ねました。在任中「見敵必攻」の将軍として、尊敬されるとともに慕われていました。
退職後も国防・危機管理等について、各地での講演などで体験をもとにわかりやすく語りかけています。
YouTube番組「ベテランズLINK]では「私は一生、中部方面総監として、部下隊員に対して責任を負っている。いい加減な生き方はできない」と話しています。武人の強烈な責任感を感じました。
その松島元陸将が「自衛隊おもしろ話」にいくつかの投稿をしています。
今回はそのうちの一つを原文そのままで皆さんに読んでいただき、関連する事項について解説したいと思います。

◆ 「防衛大学校の名物教授」from「自衛隊おもしろ話」write by松島元陸将

防衛大学校の5期生(昭和32年入校)である私の学生時代の話ですので、相当昔の話ですが、今も鮮烈に記憶が残っているお話です。
どこの学校にも「名物教授」がいるようですが、当時防衛大学校で大変ユニークな考えをする西洋哲学の教授がいました。休講が多いうえに何を勉強すればよいのかもわからず、結局何も勉強しなかった記憶が残っています。それでも試験がありますので、その時には覚悟を決めて名前だけ書いて何も書かずに出てきました。
その後の試験結果が面白い評価でした。私は何も書いていないので0点でしたが、何か書いた友人はマイナス点かプラス点でした。
教授いわく「今回は成績が悪く、マイナス点も多くて平均点は0点を下回る。マイナス点を取ったものは追試験をする。」
そこでマイナス点を取った学生が抗議しました。
「何も書かないのが0点で追試験なし。私は真面目に書いたのにマイナス点で追試験とはおかしいのではないですか。」
教授いわく「分かりやすく例えて言うが、私は東京駅から九州へ行けという問題を出した。中には大阪まで行った人、静岡までは行った人がいたのでプラス点をやった。君たちは反対の方に行く汽車に乗って、仙台や青森まで行ってしまった。だからマイナス点を与えた。何も書かなかった連中は、どの汽車に乗っていいのか分からずに東京駅に立っていたのだろう。これは0点だ。ただこの連中は、どの汽車に乗っていいのか分からないということは分かっていた。分かったと思って反対の方に行くよりも正しいのではないか。」
私は0点で追試験なしだから助かったと思って喜んだが、マイナス点組はしばらく不満が収まらず、ぶつぶつ言っていました。
その教授があるときの授業で、プリントを配ったのですが、その時のこともよく覚えています。教授が教室に並んだ各列の前で、列の人数を数えてプリントを配り、1枚ずつ取って後ろに渡すやり方でした。私は最後尾にいたのですがプリントが足りなくなりましたので「先生、プリントが足りませんので1枚ください」と言いました。すると教授は「おかしいですね、数えて渡したのですから」
「はい、でも事実足りないのです」と私が答えると、そこからがややこしくなりました。
教授いわく「事実というのは、君にとってはプリントが足りない事でしょうが、私にとっては数えて渡したという事です。1枚くれということは、私の数えたのが正しくなかったという事ですか。君の事実と、私の事実の間に違いがあるという事は、1枚ずつ取って後ろに渡す行為が正しく行われたかどうかを検証する必要があるのではないですか。」
いやはや、プリント1枚もらうのに何とも難しい理屈があるものよ、と思いながら、哲学など勉強するから理屈っぽくなるのだろうと、その時は感じていました。
それからずいぶん後になって、いろいろな経験を重ね、難問にぶつかったときに、ふと、あの教授の考え方が頭をよぎるようになりました。
例えば、事故防止の施策を考え、部下に徹底させたはずなのに事故が起きます。
徹底させたのも事実だが、起きたのも事実。どこかに思い込みがあったのか、手抜きがあったのか。考えさせられることもあります。
変わり者の名物教授などと、当時は冷やかし半分に呼んでいたのですが、その考えには、若い時には吸収できなかった蘊蓄のある内容が詰まっていたのかもしれないなと、今も思います。

この話は、軍隊組織のみならず人間がかかわる多くの事柄に示唆を与えています。一つは、努力の方法・方向を間違うと、かえって負の結果を招いてしまうという点、もう一つは、人と組織、人と機械、人とデータ・情報などなどが組み合わさって作用する場合、入力(指示・命令)と出力(結果・成果)に何らかの齟齬が生じる場合があるということです。
混沌とした戦場で勝利を得るため、軍隊は単純明快な指揮命令系統を有しています。しかしながら、人(指揮官)と人(部下)の間でも、人(指揮官)とそのほかの媒体(組織・機械・情報等)を介して人(指揮官)から人(部下)に伝わる場合、意図した結果に結びつかないことが往々にしてあります。
世界情勢や技術革新によって戦術・戦略は時代とともに変わります。しかし、人間が戦うことに変わりがない限り、人と人との関係は重要性を持ち続けます。

田母神セブンのメインライター田母神俊雄元航空幕僚長、防衛システム研究所代表 松島悠佐元中方総監ともに、もちろん防衛大学校卒業生です。最近、軍事専門家として元自衛官が登場する機会が多いですが、防衛大学校卒業生が大半です。(ウクライナ情勢にコメントする防衛研究所の現職職員は自衛官ではありません。現職自衛官はテレビ等のマスコミでコメントすることは現状では、まずありません。)
田母神俊雄氏、松島悠佐氏の出身校、防衛大学校はどのようなところなのか、どのような教育が行われているのか、意外な卒業生の特徴どについても解説をしたいと思います。

◆ 防衛大学校、学生、卒業生

我が国の有事に際して、外敵から国を守るのは自衛隊です。唯一無二の実力集団です。20万人以上の陸海空自衛隊員が全国各地で国防の任についています。この集団の枢要なポジションを9割以上占めているのが防衛大学校を卒業した制服自衛官です。このような卒業生を輩出している防衛大学校について、皆さんは知っているでしょうか。防衛大学校の概要と押さえておくべきと考えられる卒業生たる自衛官の特徴について解説したいと思います。
制服自衛官のトップは統合幕僚長です。統合幕僚長は、陸・海・空各幕僚長から昇任しますので、陸・海・空の幕僚長が各自衛隊のトップということになります。
各自衛隊の歴史で防衛大学校卒業生が、はじめて幕僚長に就任したのは平成元年8月31日付、第1期卒業生の佐久間一海将です。それまでは、帝国陸・海軍出身者や、一般大学出身者が就任していました。
第1期生が就任し始めて以降、海上自衛隊と、航空自衛隊の幕僚長はすべて防衛大学校卒業者です。陸上自衛隊は令和5年1月現在の幕僚長 吉田圭秀陸将が一般大学の卒業ですが、それまではすべて防衛大学校卒業者でした。佐久間海将の海上幕僚長就任以降53人の幕僚長が就任していますが、うち52人が防衛大学校卒業者ということです。トップになる前の補職として、陸の方面総監、海の地方総監等、航空の航空方面隊司令官などがありますが、現在までに就任した将官のうち約95%が防衛大学校卒業者です。つまり約20人に一人程度だけ一般大学などの出身者が席を占めたことがあるということです。

防衛大学校は昭和27年(1952)に保安大学校として設立され、昭和29年に防衛大学校になりました。第2次世界大戦時、帝国陸海軍の間が良好といえなかった反省の上に、陸・海・空の幹部要員を一堂に集めて教育を行っています。
文部科学省の所管する「大学」と異なり省庁の所管する各種学校に当たります。他に国土交通省の海上保安大学校、農水省の水産大学校などが知られています。
神奈川県横須賀市走水にあり、皆さんが空の旅で羽田空港を離発着する時、飛行機から注意していると(天候や飛行コースにもよりますが)上空から全景を見ることができます。三浦半島の観音崎灯台近くの小高い丘(小原台)にある、緑に包まれた白い建物群がそれです。ここに約2,000人の学生が生活しています。当初は理工系の男子のみでしたが、近年は文系および女子学生も採用されています。
学生の身分は特別職国家公務員、自衛隊員です。全寮制で被服、個人装備等は貸与、食事は支給です。そのうえ、学生手当が支給されます。教育内容は普通の大学の授業に防衛学などの座学があり、また通常、大学にはない各種訓練が加わります。毎日とにかく忙しく、起床から消灯まで分刻みの行動が要求されます。
学生は学生隊を編成しています。4個大隊制で1学年から4学年までが起居を共にしています。文字通り「同じ釜の飯を食う」わけです。軍事組織ですので学生といえども、すべてに順番がついています。学生隊学生長を頂点とするピラミッドを構成しています。全校行事から日々の生活まで、徹底した指導関係が伝統として引き継がれており、高校を卒業したばかりの若者たちが戸惑いながらも、軍隊的環境に適応させられていきます。上級生の指導は絶対的ですが、愛の鞭だけとは限らず、中には不条理なものもあり、どうしても適応できない者は退校していきます。
入校後4年間で、自衛隊幹部候補生としての知力・体力とともに、団結心等を涵養して卒業に臨みます。18歳程度の若者が、いわゆる「シャバ」から分離された空間で、4年間を過ごし、極めて強い人間関係、きずなで結ばれて、陸・海・空幹部要員として各自衛隊の幹部候補生学校へ巣立っていきます。卒業後、各自衛隊入隊から定年退職までの長い人生を歩むわけですが、防衛大学校同窓生、なかんずく同期生は、極めて固いきずなで結ばれ、生涯、仲間意識を持ち続けます。

◆ 防衛大学校卒業生の特徴

外敵に対する我が国の唯一無二の実力集団「自衛隊」、その組織の上層部を圧倒的割合で占める防衛大学校卒業生。客観的に、言い換えれば「国民目線」で見た場合に、押さえておかなければならない特徴が2点ほどあります。
1 純粋培養されていること

戦場という異常な環境では、部下に対して、死ぬかもしれない命令を下すことが必要な場合があります。
これをなすためには純粋な任務意識が必要です。そのための教育が、防衛大学校の教育の根本にあると思います。場合によっては理不尽であろうと絶対服従の校風も理解できる気がします。
青春の4年間を防衛大学校という、浮世離れした空間で過ごし、その後も各自衛隊で勤務し、それぞれの部署でほとんど一般の国民と接触せずに定年を迎える防衛大学校卒業の自衛官は数多くいます。まさに純粋培養です。
国内や外国の一般大学に留学する者、一般企業に研修に出る者など、外部との交流プログラムも存在しますが、割合からすればごく少数です。
一般の大学卒業者は職業選択の自由がありますが、防衛大学校卒業者は各自衛隊に勤務することが前提となります。
一般社会では、経営を目指す人であれば、能力発揮すれば、社会的注目を浴びて一躍成功者になることも可能です。また、世の中のいろいろな方々と若くして巡り合う機会もたくさんあります。
しかし、現状では自衛官の一般社会との交流はかなり限られたものになります。したがって、自衛官の評価は自衛隊部内での評価によるものとなります。
防衛大学校卒業者は自衛隊のトップ「幕僚長」を目指します。だだし、陸・海・空自衛隊に巣立った卒業生の同期生ではそれぞれ1名なれるかどうかです。では、何をもって昇任していくかですが、まず防衛大学校の卒業時成績がものを言います。先に述べましたが、軍隊組織であるためすべての学生に順番が付きます。2人以上いるときどちらが先任であるかを明確にするためです。つぎに卒業後は各自衛隊の幹部候補生学校での成績が重視されます。幹部となる要員が同じ評価基準で評価できるためです。
その後は職種ごとに評価されますが、初級幹部教育、幹部学校指揮幕僚過程(旧軍の陸軍大学、海軍大学に相当)等を経て昇進していくわけです。それぞれ各自衛隊の幹部学校、各種学校などに集められ、ある期間教育を受け、その都度成績と順番が付きます。
階級の昇任には一定の最低期間が設けられていることと人数に制限があるため、一番最初に昇任するものを「一選抜」といいます。同期で一選抜を続けて昇任と転任を繰り返し、徐々に要職を歴任し最終的に1名が幕僚長の栄冠?を得ることになるわけです。
この間外部の評価を受けることはほとんどありません。他省庁のキャリア官僚も内部の評価が主体ですが、国会対応、他省庁・関連団体等とのやり取りなどを通じて、ある程度の外部の評価を受けます。自衛官の場合、事故を起こすとか、何らかの不祥事に関連するなどマイナスの評価を受けた場合、幕僚長レースから脱落していくわけです。
自衛官の上層部はほとんどが防衛大学校卒業生ですので、防衛大学校卒業生による防衛大学校卒業生の評価が行われるわけです。このようなことから、幕僚長レースのライバルは、同期生のみとなるのが実情です。

2 政治不介入の浸透

第2次大戦の教訓から、軍事が政治に介入することは厳に戒められてきました。憲法9条から、自衛隊違憲を唱える勢力もあり、国民の意識も必ずしも当初から好意的なものではありませんでした。
近年の自然災害への対応における自衛隊の活躍は多くの国民の支持獲得に寄与しました。
ただ、軍事組織としての自衛隊の存在に対する意識が大きく変わってきたのは、北朝鮮による度重なるミサイル発射や核実験、中国の力を背景とした国際法無視の強引な行動や尖閣諸島への不法行為など近隣諸国の動向によるものでした。
そして決定的な意識変化はロシアによるウクライナへの侵攻によってです。
平和に暮らしている何の罪もないウクライナの国民が、いきなりロシアから侵攻され、数々の苦難を強いられている現実を目の当たりにして、我が国の防衛についての関心がにわかに高まった感があります。
昨年、政府が打ち出した、防衛予算の大幅増加や防衛政策の大きな変更について国会審議がなされています。しかしながら自衛官は国会での答弁等に参加しません。いわゆる防衛官僚といわれる内局が対応しています。世界各国の国会、議会等では軍事に責任を負う軍人が証言に立つ姿が普通にみられます。我が国は「シビリアンコントロール」の名のもとに、とにかく制服自衛官が表に出ることを避けてきました。
「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」はクラウゼヴィッツの戦争論で述べられた名言です。
戦争すなわち軍事力の行使は、国家にとって考えておくべき必須の重要事項です。
ウクライナでの戦争を見てもわかるとおり、軍事的な事項は政治と不可分であり、現代では情報伝達がはやいため戦術的なことでさえ政治に直接影響を及ぼします。
防衛大学校卒業者が枢要なポジションの大部分を占める自衛隊制服組は、政治不介入で長年過ごしてきました。我が国では現職自衛官が政治に直接関与することはありません。しかし軍事的戦略を考える上では国家戦略として、政治経済など全般を視野に入れて考察すべきであると思います。
このような学習と体験を積み重ねていれば、退職後、制限がなくなれば、元自衛官として政治に対しても軍事的観点からの有効な意見を発することができると思います。
しかしながら、現状では退職自衛官の評論家でも「日本国憲法」「専守防衛」など軍事や防衛と切っても切れない問題点に正面から言及する人は極めて少ないと感じます。軍事専門家としてメデイアに登場する場合も、戦術事項や装備品の解説程度で、政治的背景などについてはほとんど語ることがありません。「政治不介入」を旨として自衛隊生活を経てきた退職自衛官は、本来勘案すべき政治については、苦手または踏み込んだ発言はあまりしません。我が国の国家戦略を軍事専門家として論じる者としては不十分ではないでしょうか。
その点、田母神俊雄元空幕長は政治経済など幅広い分野についても視野にいれ、自らの軍事的な知見をもとに意見を述べています。広く国民に受け入れられる所以でしょう。松島悠佐元中方総監も、日本国憲法、専守防衛などに具体的に我が国の防衛との関連において論じています。

◆ 一人の防衛大学校出身、元将官 国会議員

国家運営の中心は何といっても、行政府と国会です。現在の国務大臣ほか、政府要人、国会議員に各省庁出身者は多数います。事務方に限界を感じるなどの理由で、事務次官レースの途中で政治を目指し、キャリアを積んで国会議員になり、国政に参加するわけです。
その点、他省庁と同じように防衛大学校卒業生で自衛隊を途中退職し、国会議員になっている方々はかなりの数になります。防衛大学校を中途で退学し、その後国会議員になっている方もいます。国防関係議員としてなど、かなりの重責を担っている方もいます。
一方で、国政をはじめとする我が国のトップリーダー層で軍事専門家として認知されるためには「将軍」「将官」の肩書が必要です。
しかしながら、防衛大学校出身者で「将官」となったのちに国会議員になった方は防衛大学校第1期生で参議院議員を3期務められた故田村秀昭氏ただ一人です。個人的な人柄もありますが、「将軍」と呼ばれ、信頼され親しまれた存在でした。故田村秀昭氏は「防衛庁を国防省に」「自衛隊を軍隊に」「命をかけて国を守る人達に適切な処遇を」の3点を主張し続けました。第1点目は「防衛省」の設置で成就しましたが、残る2点は未完です。2点目はなかなか難しいと思われますが、3点目は今回の防衛政策の見直しや防衛費の増額である程度達成できるかもしれません。
ただ、自衛官出身者として、もっと具体的事項についても主張べきことがあると思います。たとえば、自衛官の階級呼称です。将官であるにもかかわらず、「将補」という呼称は「将」を補佐、補完するような印象になります。また、差別を極端に嫌う世情にもかかわらず、自衛隊では「1等」「2等」「3等」と人間に等級を付けて「1等陸佐」「2等海尉」「3等空曹」・・・等というのが正式呼称です。
このようなことは、現代社会、国民目線で見ると非常に奇異なことですが、自衛隊員、自衛官自身はあまり問題意識を持っていません。日常過ぎて気が付かないのです。このようなことは他にも多く存在します。
防衛大学校卒業後、将官になるためにはかなりの年月自衛隊に在職しなければなりません。
そこで、我が国全体の政治に軍事的な見識と実体験を基づいて影響を与え寄与するため、定年前に国政や各界に飛び込んで活躍する者が出現してもらいたいものです。防衛大学校で涵養した団結心で、卒業生の総力を挙げて応援する構図は、必ず、我が国の将来にとって望ましいものになると考えます。